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ピュドナの戦い(ピュドナのたたかい、)は第三次マケドニア戦争において紀元前168年6月22日にルキウス・アエミリウス・パウルス率いるローマ軍とペルセウス王率いるアンティゴノス朝マケドニア軍との間で戦われた会戦である。この戦いはしばしばマケドニアのファランクスの非柔軟さへのローマのレギオンの柔軟さの勝利と見なされている。 == 背景 == 紀元前179年のマケドニア王ピリッポス5世の死後、その息子ペルセウスが王位についた。ペルセウスは北方の蛮族対策と称して軍備を増強し、父王の親ローマ路線から反ローマ路線へと舵を切った。 軍備増強の後、マケドニアはペルガモン王国に侵攻した。ペルガモンはローマに救援を求め、ローマはそれに応じ、ギリシアへと軍勢を送った。第三次マケドニア戦争の勃発である。緒戦マケドニア軍はローマの陸海軍に対して優勢に戦いを進めた。このため、ローマは紀元前168年にマケドニア軍に太刀打ちできる人物としてルキウス・アエミリウス・パウルスを執政官に選び、ギリシアへ派遣した。 ギリシアに着いたパウルスは早速ペルセウスとの戦いを開始した。ペルセウスは周囲を城壁や柵で固めつつ、「オリュンポスの山裾が海に没するあたり」に陣取っており、難攻不落であった〔プルタルコス, 「アエミリウス・パウルス」, 13〕。何日かの間両軍はにらみ合っていたが、その間パウルスは周囲を調査し、ピュテイオンとペトラを経てペライビアへと抜ける道が無防備であると知った。そこで彼は8200人の歩兵と120騎の騎兵を与えてプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムをその道を通って沿岸地域まで周り込み、敵を包囲しようとみせかけた〔ibid, 15〕。しかし、この目論見はローマ軍より脱走してきたクレタ人によってペルセウスの知るところとなり、彼は傭兵10000とマケドニア兵2000をミロンに与えて差し向け、敵へと向わせた。しかし、ミロンはナシカに敗れ、これを知ったペルセウスはピュドナへと後退した〔ibid, 16〕。その時マケドニア軍が着陣した場所は平坦な地形で、ファランクスを展開するのに適していた。 ナシカの部隊と合流したパウルスはマケドニア軍に対陣した。その夜、月食が起きた。パウルスが月食について知っていたこともあり、ローマ人は月の光を呼び戻す儀式を行ったのに対し、マケドニア軍は月食に恐れおののき、王が滅ぶ徴候だと言う噂が流れた〔ibid, 17〕。このため、マケドニア軍の士気は戦いの前には既に落ちていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピュドナの戦い (紀元前168年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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